株式会社ユーラシア旅行社

フラッシュ・ムービー「西洋美術紀行」
第六章「印象派の登場」

音楽素材提供:クラシック名曲サウンドライブラリー

※このフラッシュ・ムービーは、実際にヨーロッパ旅行をする際に、美術館や教会の観光をより楽しんで頂く為のコンテンツです。各章では、西洋美術史とその時代の名画を簡潔に紹介しております。
内容には正確性を期しておりますが、学術的な教本ではないために解釈が分かれる各芸術家の時代区分や画中に込められた思索に関しては、一部主観を交えた表現も用いております。また、その他のご意見やご質問に関しましては、お問合せ下さい。

※ムービー中で紹介する各絵画はツアーの日程に含まれていない美術館、博物館、教会もございます。ツアーの観光内容に関しましては、各ツアーの日程表をご参照下さい。また、日程中に含まれない観光地でも自由時間を利用して訪れる事が可能な箇所もございます。詳しくはツアーの担当までお問合せ下さい。

※各作品は急な修復や貸出しでご覧頂けない場合もございます。

19世紀後半の美術

19世紀後半、ヨーロッパは市民の台頭が著しくなる。それはイギリスにおいて始まった産業革命
により、機会と科学の力が人々に新しい生活をもたらした為であった。19世紀の後半は、18世
紀の始めよりヨーロッパ絵画界の中心を形成していたフランスが引続き主役を務める事になる。
依然ロマン派や写実主義の作品が重きを成していたフランスだが、この時代に入って絵画界に「光」が差し始めた。そして画家達はその「光」を求めて、アトリエの外に飛び出した。

印象派の登場である。

印象派の誕生に大きく寄与したのが、この時代にヨーロッパに流入してきたある外国の大衆美術であった。伝統的なヨーロッパ絵画とはかけ離れた手法が用いられたその国の大衆美術は、19世紀後半からヨーロッパにおいて大きな潮流を生み出した。その国が1860年代から政権が変わり、
西洋文化に傾倒した事に伴って従来の美術品が大量にヨーロッパに流出した事もこの流れに拍車をかけた。その国とはもちろん日本である。

エドワール・マネ

■エドワール・マネ(1832-1883)
パリの裕福な家庭に生まれたマネは、17歳の時に画家になる決意を固めた。当時の慣習に倣って工房で腕を磨き、やがてサロンに入選するような作品も生み出した。しかし、1860年代に発表した「草上の昼食」「オランピア」でこれまでにない大胆な構図の裸婦を描き、大きな物議を醸した。多くの批評家の失笑も買ったこれらの作品は当時認められる事はなかったが、保守的な絵画の伝統からの脱皮を目指していた若手の画家達はマネの元に集った。その中には、ドガ、モネ、ルノワール、セザンヌら後に印象派の巨匠と讃えられる人々の姿もあった。マネはスペイ
ンと日本の文化にも深く傾倒し、後期の作品にはその影響も見られる。マネ自身は印象派の展示会に作品を出す事はなかったが、後輩達の面倒をよく見、伝統からの脱皮という点においては印象派と画風を共有した事から、印象派の祖の一人に数えられる。

マネ「オランピア」(パリ/オルセー美術館)

マネ「オランピア」(パリ/オルセー美術館)
ジャン・クロード・モネ

■ジャン・クロード・モネ(1840-1926)
パリで生まれたモネは、印象派を代表する巨匠。ルノワール、セザンヌなどは後に印象派の技法を離れ、独自の道を進んだが、モネは終生その技法を追及し続けた。5歳の時にノルマンディー地方に移ったモネは、海を眺めながら育った。戯画を描き近所の評判となったモネに、画家になることを勧めたのはブーダンであった。ブーダンは戸外に出て光を取り入れた画を描いており、別名「光の画家」と呼ばれるモネに影響を与えた。成人すると、モネはパリへ出てピサロ、ルノワール、シスレーらと出会う。そして1874年にその仲間達と後に第一回印象派展と呼ばれる展覧会を開催する。モネたち印象派の画家たちは、理想化された風景ではなく、戸外の現実の風景をとらえようとした。

明るい色彩とはっきりとした線でない軽やかな筆触が特徴である。モネは光の変化にこだわり続け、晩年は「睡蓮」を始め、「ルーアンの大聖堂」「積み藁」など様々な連作を手がけた。

モネ「印象-日の出」(パリ/マルモッタン美術館)

モネ「印象-日の出」(パリ/マルモッタン美術館)
ピエール=オーギュスト・ルノワール

■ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)
ルノワールは1841年フランス中部リモージュで貧しい家庭に生まれた。一時磁器の絵付職人となるが、画家になる夢を諦めきれず、美術学校に入学し、キャリアをスタートする。その頃モネ、シスレー、バジールらと出会い、フォンテンブローの森やセーヌ河畔で戸外制作に熱中、新しい外光派の絵画に向かっていく。ルノワールは特に人物画に長じ、自分の友人、恋人をモデルに好んで人物画を描いた。ルノワールは第一回から第三回印象派展に参加してその中心の一端を担っていたが、晩年は印象派の画風に疑問を感じるようになり、イタリア旅行を期に古典的な絵画に回帰していった。

印象派時代のルノワールの絵画は、自然の光の中に人物を瞬間的にとらえ、画面の中に漂う甘美的な雰囲気は、絵付け職人時代に影響を受けたロココ美術からきているとも言われている。

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(パリ/オルセー美術館)

ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(パリ/オルセー美術館)
ポール・セザンヌ

■ポール・セザンヌ(1839-1906)
南仏の裕福な家庭に生まれたセザンヌは、画家になる夢を抱きながらも、大学では父の希望を背負って法律を専攻。画家への道を閉ざしかけていたセザンヌを叱咤激励し、パリにのぼらせ絵画の勉強を実現させたのは、彼の少年期からの友人エミール・ゾラであった。
パリで画家としての人生をスタートさせた彼の初期の作品は暗い色彩の作品が多かったが、印象派のピサロとの出会いによって大きく画風が変わっていく。ピサロは、人付き合いが苦手で引き籠りがちだったセザンヌを屋外へと連れ出し、共に制作に取り組んだ。ピサロとの交流を通して、自然を冷静に観察することを学んだ彼の作品は、やがて明るく爽やかなものへと変化する。しかし後に彼は印象派と一線を画すようになり、荒々しくも静物の本質に迫る作品を世に出し、ピカソやマイティスなど続く20世紀美術に大きな影響を与えた。

セザンヌ「りんごとオレンジ」(パリ/オルセー美術館)

セザンヌ「りんごとオレンジ」(パリ/オルセー美術館)
ポール・ゴーギャン

■ポール・ゴーギャン(1848-1903)
1848年パリで生まれたゴーギャンは生涯を通じて流浪の人生を辿ったと言っても過言ではない。生まれて間もなく政治的な事情でペルーに渡り、7歳の時にフランスに帰還した。しかし、成人すると航海士になり、戦時中は海軍の兵士にもなったので、広く世界を見聞して回った。

その後、株式の仲買人を経て、画業に専念した。ゴーギャンの作品に魅せられていたゴッホから共同生活の申し入れもあり、ゴーギャンはアルルに出向いた。しかし、互いの強烈な個性は衝突し、ゴッホとの共同生活は2ヶ月ともたなかった。精神的な疲れが見え始めていたゴーギャンは楽園を求めてタヒチに渡る。一度帰仏した後に再びタヒチに渡り、創作活動を続けた。
存命中は大きく認められる事が少なかったゴーギャンだが、今ではポスト印象派の時代を牽引した画家の一人として高く評価されている。

ゴーギャン「タヒチの女」(パリ/オルセー美術館)
ゴーギャン「タヒチの女」(パリ/オルセー美術館)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

■ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)
オランダ南部で生まれたゴッホは成人して様々な職業を経験したが、どれも今ひとつうまく行かなかった。転機が訪れたのは27歳の時で、画家になる決意をし、学校に入って美術の勉強を始める。卒業した後にゴーギャンらポスト印象派の画家達と交わり、独特の筆触が施された個性的な作品を製作した。日本の浮世絵にも強い影響を受けた。しかし、絵は売れなかった。
その後南仏のアルルに移住し、ゴーギャンとの共同生活を営んだが、自画像の耳がおかしいというゴーギャンの指摘に対し、自分の耳を切り落とすという奇行を犯し、精神科病院に入院する。しかし、この入院はゴッホにとってもよい方向に向かった。何故ならこの病院に入院していた時代にゴッホの傑作の多くが生み出されたからだ。しかし、それでも絵は売れなかった。ゴッホは間もなくして自殺するが、不幸にして生前に売れた絵は1点だけであったと言われている。

ゴッホ「夜のカフェテラス」(デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園/クレラー・ミューラー美術館)

ゴッホ「夜のカフェテラス」(デ・ホーヘ・フェルウェ国立公園/クレラー・ミューラー美術館)
第一章「ルネサンスT〜ルネサンスの誕生〜」
第一章「ルネサンスT〜ルネサンスの誕生〜」
第二章「ルネサンスU〜ルネサンスの成熟〜」
第二章「ルネサンスU〜ルネサンスの成熟〜」
第三章「フランドルの台頭」
第三章「フランドルの台頭」

第四章「バロックの光と影」
第五章「ロマン派の躍動」
第五章「ロマン派の躍動」
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