株式会社ユーラシア旅行社

フラッシュ・ムービー「古代地中海世界」
第六編「ローマの終焉〜帝政期後半〜」

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音楽素材提供:クラシック名曲サウンドライブラリー、新オリエント楽派

セヴェルス朝
五賢帝の最後を飾ったマルクス・アウレリウスは後継者に息子のコモドゥスを指名した。史実とは若干異なるが、この辺りの模様は2000年に公開された映画「グラディエーター」でも紹介されている。そしてローマの崩壊はこのコモドゥスの代から始まったと断じる史家も多い。特に治世の後半は無為無策を曝け出し、忠実な側近を遠ざけ、奸臣が甘言を持って政治を握るという事が重なり、間もなくして全ローマから見放される。そしてコモドゥスは映画のように競技場ではなく、入浴中に暗殺された。世は賢帝達の時代から軍人達の時代に入る。多くの軍人が皇帝に擁立され、すぐさま消される。そうした中で力を付けたのが、北アフリカ出身のセプティムス・セヴェルスであった。ライバルを一人また一人と撃破したセヴェルスは、帝位に就いた後パルティアの遠征でも大きな成果を挙げ、フォロ・ロマーノの一等地に今日にも残る巨大な凱旋門が建てられた。また、故郷であるレプティス・マグナにも錦を飾った(第四編参照)。
しかし、セヴェルスそしてローマ南部の大規模な浴場で知られるその息子カラカラの代に成された軍制改革によって、ローマの終焉が始まるという史家も少なくない。親子ニ代の内に、兵の待遇を大幅に改善し、結果として職業軍人の台頭を許し、かつ国家の財政に負担をかけた事が後々尾を引く事になる。カラカラは31歳の若さで暗殺された。そしてカラカラ以後、共同統治時代も含めて約60人の皇帝が誕生したが、大半が暗殺、戦死、更に獄死までして、寿命を全うできた皇帝は数える程しか出ない混迷期に突入する。そしてその期を捉えたのか、国境を越えて侵入してくる異民族の動きも活発化し、パクス・ロマーナは最早過去の言葉となった。
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セヴェルス帝の凱旋門
セヴェルス帝の凱旋門
パルミラ
パルミラは現シリアの中央部に位置する古代都市。メソポタミア地方の遺跡で出土された粘土版より、前19世紀頃、古代名「タドモル」という集落がすでに存在していたとされるパルミラ。旧約聖書によると、ダビデの子ソロモン王が町を築き、拡大したとされる。ギリシャ語のPALMA(ナツメヤシ)を意味する現在の”パルミラ”として世に知れたのは、前3世紀頃のこと。東のパルティアから西のローマ、そして南のペトラから北のアナトリアに至る2つの大きな隊商路が交差する地に位置するパルミラは、絹や香料、ガラスなどの交易で発展した。
前1世紀、古代ローマとパルティアの緩衝地帯として繁栄し、パルミラ王国が誕生。2世紀のローマ帝国支配下も、王国としての自治は続き、オデナイト王の妻ゼノビアの女王の時代に全盛期を迎えることとなる。王の存命中から王の頭脳として戦いにも同行したと言われるゼノビアは、一説では自身の策謀によるものと言われる王の暗殺によってパルミラの実験を握る事に成功する。ローマ帝国の東方戦線において戦功を挙げ、本国からの信認を得たゼノビアは、徐々に自分の野望を表に出し始める。
東方戦線の治安の安定化を理由に、パルミラの領土を越えて、現在のエジプトからシリアを経てトルコ東部に至る一帯に進出し、事実上領土化した。そしてクレオパトラの後継者や自分の息子を皇位継承者と名乗るに至り、ローマも全面対決を選ぶ他なくなった。皇帝アウレリウスは各地でゼノビア軍を撃破し、272年、遂にパルミラを陥落させてゼノビアを捕らえる。凱旋式の際に市内を引き回しにされたものの、その後はローマで生活を保障され、一市民として生涯を全うしたと言われる。
そしてパルミラは自治権を失い、束の間ローマの領土に組み入れられたが、やがて東方や南方から押し寄せたアラブとイスラムの波の中でパルミラは次第に忘れ去られていった。再び歴史の舞台に戻ったのは、18世紀の発見によるものだった。パルミラ遺跡にて、ベール大神殿、そして記念門より続く列柱道路を歩いていくと、巨大な四面門に突き当たる。さらに遥か先に目を向けると、
威厳を放つアラブ城が‥遺跡の広さを実感する瞬間だ。また、遺跡を囲む城壁の外部には、巨大なネクロポリス(墓地)もあり、鮮やかなフレスコで装飾されている。また、パルミラの博物館には遺跡で発見された中国産の絹も展示されている。パルミラが古代シルクロードの中継都市として栄えた象徴でもある。発掘は今日も続いており、これからも益々興味深い遺跡だ。
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記念門
記念門
ディオクレティアヌス帝
寿命を全うした初期の皇帝達の時代と異なって、ほとんどの皇帝が暗殺、戦死、さらに獄死までする時代。軍人によって帝位に擁立されたディオクレティアヌスも、死と隣り合わせの身分に就く危険性を充分に認識していたのだろう。帝位についたディオクレティアヌスは、自らを最高神ゼウスの子と称し、その地位の神格化をはかる。また、キリスト教徒を弾劾した皇帝としても知られる。一方で相次ぐ異民族の侵入で危機に瀕した帝国を復興させるべく、広大な帝国に四分割統治を導入した。これは、広大な帝国の防衛線を強化する為であった。従来の制度では、皇帝がある戦線に赴くと、その隙に乗じて他の場所で異民族の侵入や内部の反乱が多発した。結果として皇帝は、広大な帝国内を東奔西走せざるを得なくなり、どの戦線においても大きな戦果を挙げる事は難しかった、帝国を分割する事によって、各防衛線により広い自治権を持たせた。結果としてこの策は功を奏し、一時的に帝国は持ち直したが、自身もまた以前の皇帝達のように暗殺されるのを恐れたのか、ディオクレティアヌスは存命中に引退という異例の道を選び、退位後の余生を過ごす為に10年がかりで建設されたスプリットにある宮殿に隠居した。
スプリットは現クロアチアにある皇帝の出身地サロナの目と鼻の先にある港町である。この町の名は可憐な黄色い花で目を楽しませてくれるエニシダ、ギリシア語のアスパラトスが転じたものである。このスプリットの約200m四方の宮殿は堅牢な城壁と塔で守られ、山麓にあたる北側には外敵に備え護衛隊が常駐。南半分が神殿や生活空間で、海に面した銅の門(南門)からは非常時には直接船で脱出ができた。カルド、デクマヌス通りが交叉する列柱広場にはエジプトから持ち帰られた11体のスフィンクスと列柱が立ち並び、荘厳な雰囲気のなか臣下たちは前皇帝に平伏した。
ちなみにディオクレティアヌスの没後は、この宮殿は打ち捨てられ、スラブ人が到来する7世紀には、広大な宮殿の中に新しい町が形成された。かつての地下広間はゴミ溜めと化したことが幸いし、ほぼ完全な形で今日に残されている。皮肉なことにキリスト教徒を迫害した皇帝の廟は大聖堂へ、ジュピター神殿は洗礼堂へと作り変えられた。幾多の興亡を見つめたスプリット。21世紀のいま、過去と現在が交錯した不思議な感覚に包まれる。
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ディオクレティアヌス宮殿
ディオクレティアヌス宮殿
コンスタンティヌス大帝
ディオクレティアヌス亡き後のローマ帝国は、4分割された計4人の正帝、副帝に引き継がれる。コンスタンティヌスは、その内の副帝の一人、コンスタティウス一世の息子として生まれた。母親へレナはキリスト教徒であった。父が遠征中に病死すると、その軍団を引き継いで帝国の一方の雄として西の副帝に就いた。しかし、この帝国の4分割制度は、創始者であるディオクレティアヌスが幅を利かせている間は機能していたが、ディオクレティアヌスが亡くなるとその均衡は崩れる。コンスタンティヌスは、ローマ近郊のミルヴィオ橋の戦いで西の正帝マクセンティウスを破り、次いで東の皇帝達も破って帝国の再統一を実現した。弱体化した帝国を立て直す為に内政面でも梃入れを図ったが、斜陽化著しい帝国を再建するには至らなかった。
そして、コンスタンティヌスの名を今日に知らしめている政策として、ミラノ勅令によってキリスト教をローマ史上初めて公認した事とビザンティオンへの遷都が挙げられる。キリスト教の歴史によれば、神の啓示でキリスト教を庇護する政策を取った事になる。コンスタンティヌスが元々信徒であったかどうかは不明だが、実際母親はキリスト教徒であったので、キリスト教を認める下地はあったと言える。しかし、史家達の間では、政治的な理由によってキリスト教を認めたという説が有力だ。公認後のコンスタンティヌスがキリスト教勢力を味方に付けた事で戦いを有利に運んだ事と実際にはミトラ教の信徒であったという見方もある。遷都に関しては、様々な目的があるとされるが、君主制に少なからぬアレルギーを抱えていた帝国の西方と違って、歴史的に君主制に慣れていた東方の方が皇帝権の強化がしやすかったのかもしれない。この遷都は後のビザンツ帝国の礎となるが、皇帝に権力が集中した封建的な色合いが強く、最早かつてのローマ帝国と「S.P.Q.R.(元老院と市民のローマ。第三編参照)」の精神は失われていた。彼の死後、帝国はいよいよ傾いていく。
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ラファエロ「ミルヴィオ橋の戦い」(ヴァチカン博物館)
ラファエロ「ミルヴィオ橋の戦い」(ヴァチカン博物館)
コンスタンティノープル
歴史は、人々が定住を始めた前3000年頃に遡ると言われる。数千年もの間は平穏な日々が続いていた。前7世紀になるとギリシア人が侵入し、この地を占領して、ビザンティオンの町を築く。続いて前1世紀にはローマ人によって征服され、330年、コンスタンティヌス大帝の時代にビザンティオンは(東)ローマ帝国の首都となり、コンスタンティノープルと名前が改められた。その後も東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都として発展を続け、ルネサンスにも影響を与えたビザンチン文化の主役を担った。今日に残るアヤ・ソフィアは、当時の傑作だ。しかし、数世紀に渡るペルシア人とアラブ人による攻撃により、町は弱体化していった。特に14世紀に入って東部から勢力を伸ばしてきたオスマン朝の侵食に寄って領土の大半を失い、1453年、歴史に残るコンスタンティノープル攻防戦でメフメト二世のオスマン軍の猛攻の前に約千年続いたビザンチン帝国は終焉を迎えた。そして、都市の名前もコンスタンティノープルから、現在のイスタンブールへ変更された。
16世紀中頃までには都市の人口は約50万人にまで達し、トルコ人のみならず、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ人といった様々な民族が暮らす文化、政治の中心となっていった。20世紀に首都がアンカラに移されて後もその繁栄は変わらず、世界でも唯一ヨーロッパ側とアジア側にまたがる町、東西文明の十字路として人々を魅了し続けて止まない。
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アヤ・ソフィア聖堂
アヤ・ソフィア聖堂
帝国の終焉
三世紀から活発になり始めた北方のゲルマン人達の動きは、4世紀に入って一時的に穏やかになったものの、5世紀に再び活発化する。帝国が挙国一致して迎え討っていればまだ持ち応える事ができたかもしれないが、権力争いや宗教、財政難という内憂に煩わされた帝国には外患を退けるだけの力はなかった。加えてゲルマン人達も、東方から盛んに進出してきた遊牧民系の民族の攻勢が激しく、西進するしか生き伸びる道がなかったという事情もある。
コンスタンティヌス亡き後も帝国は100年以上生き永らえたが、それはもうかつての栄光のローマではなくなっていた。カエサルやアウグストゥスが見たら、失望していただろう。フェニキア人のカルタゴを滅ぼした時に自分達の行く末を懸念したスキピオは、ひょっとしたらこの運命を見透かしていたのかもしれない。その時ギリシア人達は、
それまでの潮流と異なるローマのギリシア化が進んだ東ローマ帝国に夢を託しいたのだろうか。
476年、最後の西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人によって廃位させられた。東ローマ帝国はその後も尚千年続くが、そこに漂っていたのは古代ではなく、中世の薫りであった。一般的にこの西ローマ帝国の滅亡をもって、古代が終りを告げる。古代ギリシア、フェニキア、エトルリア、そしてローマ人達が育み、夏の海の美しさのように煌めいた古代地中海文明の日が落ちた瞬間だ。それから1500年、栄光の時代からは2000年前後の歳月が流れた今日の世界に彼らの姿はない。しかし、彼らの目に見えない遺産は今日の文明に大きな影響を与えた。そして、このムービーで紹介してきたように、彼らの目に見える遺産もまだまだ各地で健在だ。古代の遺跡に立てば、煌めく地中海から吹く風が、往時の姿を語りかけてくれるだろう。
第一編「古代ギリシア文明の栄光」
第一編「古代ギリシア文明の栄光」
第二編「謎の民フェニキア人」
第二編「謎の民フェニキア人」
第三編「ローマの誕生〜王政期〜」
第三編「ローマの誕生〜王政期〜」

第四編「ローマの台頭〜共和政期〜」
第五編「ローマの終焉〜帝政期後半〜」
第五編「ローマの栄華〜帝政期前半〜」
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