謎に包まれた世界の古代民族、古代文明特集

フェニキア人、ナバテア人、ソグド人、エトルリア人、トラキア人等世界の古代民族、古代文明をご紹介します。

  • ビブロス遺跡(レバノン)

  • ヨルダンのペトラ遺跡

  • ソグド人の壁画(アフラシャブの丘/サマルカンド)

  • 貴重なエトルリアの壁画が残るタルクィニアのネクロポリスにある豹の墓

  • テレス一世の黄金のマスク

 

 

人類の歴史の中で生まれては消え、未だ謎に包まれたままの古代民族や文明も少なくありません。アルファベットを生み、ローマ帝国と比肩する都市国家カルタゴを築いたフェニキア人、中東の交易で財を成し、岩に隠された都市ペトラを築いたナバテア人、黎明期のシルクロード交易の主役を担ったソグド人、そしてイタリア半島の先住民エトルリア人、中南米のインカ文明などをご紹介します。
観試練下多数の写真や続きは弊社の「VOYAGE-世界見聞録-」でご紹介しています。

アルファベットを生み、カルタゴを築いたフェニキア人

  • カルタゴ考古遺跡(チュニジア)

    カルタゴ遺跡(チュニジア)

  • ビブロス遺跡(レバノン)

    ビブロス遺跡(レバノン)

フェニキアとは元々レバント地方の海岸線地域(主に現在のレバノンにシリア。イスラエルの一部海岸部)を指していた地名です。語源は諸説ありますが、フェニキア人達の主力輸出品の一つであった貝から抽出していた紫色の染料のギリシャ語に由来すると言われています。紀元前12世紀頃から力を持った都市国家群(ビブロス、ティルス等)が形成され、海洋交易を生業として繁栄を築き始めました。最盛期には西地中海の大半を支配して、カルタゴを始めとする植民都市が各地の良港に建設され、ギリシャと並ぶ二大勢力の一角に立ちます。しかしながら、紀元前3世紀頃から勢力を伸ばして地中海進出を始めたローマ帝国の前に最大都市カルタゴが三度のポエニ戦争で敗北し、歴史からその姿を消す事になりました。

現代アルファベットの原型となったフェニキア文字の発明、レバノン杉や紫染料の輸出、古代世界にブームを巻き起こした吹きガラスの技術など文化・商業の面で古代地中海世界において大きな存在感を放ち、カルタゴ建設後はハミルカル、名将ハンニバル父子による軍事面での躍進でも歴史にその名を刻みました。

特集記事「アルファベットを発明した、古代の海洋民族フェニキア人」はこちら

砂漠の交易の民、ナバテア人とナバテア王国

  • ヨルダン/ぺトラ遺跡エルカズネ

    ヨルダンのペトラ遺跡

  • 世界遺産マダイン・サーレ

    サウジアラビアのマダイン・サーレ遺跡

アラビア半島北部を中心に遊牧を営んでいたアラブ系の民族ナバテア人。達は紀元前4世紀頃に北上し、現ヨルダンにあるペトラに居を構えると、周囲の交易路を行き交う隊商たちの警護や関税徴収に生業を移しました。その結果大きな富がナバテア人達に入るようになり、岩に守られた首都ペトラを中心にナバテア王国が生まれます。その後約200年に渡り大きな繁栄を手にしますが、交易路がペトラから遠ざかり、さらに紀元後106年にローマ帝国のトラヤヌス帝がペトラを属州化し、ナバテア王国とその繁栄に終止符が打たれます。そしてナバテア人達は歴史の中に消えゆき、その名が再び表舞台に登場する事はありませんでした。
ナバテア人達は口語はアラビア語系、文語はアラム語系の言語を利用していましたが、当時から歴史的記述や文献が多くなく、その姿は今でも謎に包まれています。

特集記事「ナバテア人とナバテア王国、謎の交易民族のルーツと痕跡を辿る」はこちら

ソグド人とソグディアナ、シルクロード交易の民

  • ソグド人の壁画(アフラシャブの丘/サマルカンド)

    ソグド人の壁画(アフラシャブの丘/サマルカンド)

  • ペンジケント遺跡・タジキスタン

    ペンジケント遺跡・タジキスタン

ソグド人は、現在の中央アジア(ウズベキスタン、タジキスタン、カザフスタン、キルギス)に位置していたソグディアナを本拠にしていた農耕民族。紀元前6世紀頃から歴史の舞台に登場し、紀元前4世紀頃には南側に出現した大帝国であるアケメネス朝ペルシャの影響下に置かれるようになりました。その後アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王)とその流れを汲むセレウコス朝、クシャン朝、ササン朝ペルシャ等の大国の版図に組み込まれながらも一定の自治を維持し続けました。

そしてそのソグド人がシルクロード(東西交易)の黎明期から約1500年に渡り交易を主導した交易の民です。大きな政治力や軍事力もなかったソグド人だが、悪路を行く機動性に富み、多言語に通じ、商取引にも優れたプロの通称集団としてシルクロードという通商路の確立に最も貢献した民族であると言っても過言ではないでしょう。
ソグド語はシルクロードの公用語とも言える重要な言語になり、通商がもたらず莫大な富で潤った紀元後3-6世紀頃がソグド人たちの絶頂期でした。

しかしながらソグド人とソグディアナの栄光の歴史も中世に入ると急速に衰退し、イスラム教勢力が中央アジアを支配するようになってからソグド人の姿は徐々に減り、やがて歴史の表舞台から姿を消していきました。

特集記事「ソグド人とソグディアナ、シルクロード交易の民」はこちら

エトルリア人とエトルリア文明、古代ローマ前夜のイタリア半島で花開いた文化

  • タルクィニアのネクロポリス、エトルリア

    貴重なエトルリアの壁画が残るタルクィニアのネクロポリスにある豹の墓

  • ペルージャのエトルリア門

    ペルージャのエトルリア門

古代ローマが勃興する前のイタリア半島に都市と文明をもたらせたエトルリア人。紀元前8世紀頃からイタリア半島中部に複数の都市が形成され、イタリア半島南部のギリシャ人や海の向こうのカルタゴの影響も受けながら勢力を拡大していきました。都市の形成や見事な建築技術、高い芸術性等はその後古代ローマの礎にもなりましたが、紀元前4世紀頃から台頭し始めた古代ローマに徐々に同化され、歴史の表舞台からは姿を消して行きました。
しかし今日でもフィレンツェがある”トスカーナ州”、イタリア半島の西側に広がる”ティレニア海”に名前を残しており、エトルリアの最大都市の一つであったタルクィニアを中心に当時の出土品がエトルリア人の文明を今日に伝えています。

特集記事「エトルリア人とエトルリア文明、古代ローマ前夜のイタリア半島で花開いた文化」はこちら

トラキア人とは?黄金文明の跡を辿ってブルガリアへ

ブルガリア カザンラク トラキア文明 テレス一世の黄金のマスク

古代の時代においてバルカン半島東部、現在のルーマニア南東部からブルガリア、ギリシャ北東部、トルコのヨーロッパ側に広がる地域がトラキアと呼ばれ、トラキア人が居住していました。その痕跡は4000年以上遡る事ができますが、本格的な国家と文明が誕生した最盛期は、6世紀頃アケメネス朝ペルシャの支配から解放された紀元前5世紀から1世紀頃でした。トラキア人の中で有力な部族であったオドリュサイ人達がトラキアを束ね、優秀な騎馬隊を送り出してアテネと同盟都市になり、ペルシャ戦争後にアテネとスパルタがギリシャの覇権をかけて戦ったペロポネソス戦争においてもアテネ側で参戦しました。一方ペロポネソス戦争やその他の内乱でギリシャの国力が衰えて古代マケドニアが台頭すると、隣接するトラキアは従属を余儀なくされ、以後少しずつ勢力が衰え、古代ローマの時代に入ると完全な属州の一つになります。

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インカ帝国・文明の誕生、繁栄と滅亡

  • VUP4 マチュピチュ

    マチュピチュ遺跡

  • インティライミ祭、ペルー

    インティライミ祭

ペルーとボリビアの国境、海抜3800mに位置するチチカカ湖に浮かぶ”太陽の島”が伝説上のインカ帝国発祥地です。インカの伝説では、この島で太陽神が始祖マンコ・カパックと姉妹を想像し、世に送り出しました。チチカカ湖から北(現在のペルー)側に進んだマンコ・カパック一行が肥沃な土地に囲まれた谷間に居を定め、伝説上ではそれが現在のクスコの街の起源になっています。歴史的には、ケチュア族に属する人々が12世紀頃に、クスコを中心に帝国の礎(クスコ王国)を築きました。
 

15世紀に入ると、インカは上部地図に沿ってクスコ周辺を治める地方王国から急速に拡大路線に傾き、特にパチャクテク、トゥパック父子による遠征は大きな成功を収め、インカは一躍広大な領地を得る事ができました。名実ともに帝国への道を歩み始め、この最盛期には、南米大陸を縦断するアンデス山脈の西側の大半を治めるに至りました。征服した土地には貴族階級の統治官を送り込み、皇帝を中心とした中央集権的な体制が築かれました。後述するインカ道によって広大な帝国内の物資や情報伝達も整備され、アンデスの山中にマチュピチュを始めとする壮大な都市や施設群が築かれました。


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