伊勢参り 旅行・観光・ツアー特集~伊勢神宮の参拝方法や作法について知ろう~
知っておきたいお伊勢さんめぐり
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伊勢神宮・外宮(イメージ)
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伊勢神宮・内宮 /弊社添乗員撮影
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内宮 五十鈴川(弊社添乗員撮影)
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二見興神社 写真提供:二見興神社
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おはらい町
天照大御神がなぜ伊勢にご鎮座することになったのか?
お伊勢さんを知り、その参拝方法を改めて知ってから訪れてみませんか?
伊勢神宮について
伊勢神宮とは?
【伊勢神宮】三重県
総面積:約5,500ヘクタール(東京ドーム約1,200個分)
「伊勢神宮」とは、天照大御神を祀る「内宮(ないくう)」と呼ばれる皇大神宮(こうたいじんぐう)と「外宮(げくう)」を中心とした125のお宮とお社を合わせた総称になります。神宮林などもすべてあわせると、広さはなんと約5,500ヘクタール(東京ドーム約1,200個分)という広大な敷地なのです。
伊勢神宮まではどうやって行くの?
ユーラシアの旅(ツアー)では、最寄り駅までは上記のご案内と同じですが、駅から伊勢観光、ホテルまで専用バスで効率よく巡ります。
*現地合流の場合、コースにもよりますが伊勢市駅や宇治山田駅で合流、もしくは離団となります。
伊勢神宮観光のすゝめ
お伊勢さん、その成り立ちと歴史
倭媛宮は内宮にある別宮の一つ (弊社添乗員撮影)
天照大御神にふさわしい場所にお祀りされることを決意され、「御杖代(みつえしろ)」として皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)
は大和の笠縫邑に神籬を立てて大御神をお祀りしお仕えしました。
その後、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が跡を継ぎ「御杖代(みつえしろ)」となり、新たに永きに渡り神事を続けることができる場所を求め、大和国を出発。様々な国々を巡り伊勢国に入られました。
『日本書紀』では、伊勢国に着いた時に天照大御神が「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」と仰られたとされており、倭姫命は大御神の教えのままに五十鈴川の川上に宮をお建てしたのでした。
これが伊勢神宮の始まりといわれ、約2000年前にさかのぼるといわれているのです。
その後、多くの皇女が斎王としてこの地に赴任します。8世紀にはすでに外宮の存在が認められており、斎王制度が続いたおよそ660年の間に、60人以上の斎王が斎宮にお住まいになり、年に数度伊勢神宮へ赴きました。
斎王制度が終焉を迎えた後も、伊勢神宮の重要性は変わらず、平清盛、足利義満、織田信長など多くの歴史上の人物も参拝に訪れています。
また、江戸時代になると多くの庶民も関所を通過し、伊勢神宮への参拝に訪れました。徳川幕府の歴代将軍が自身で参拝することはありませんでしたが、家臣に代理参拝させ、太刀や馬などを奉納していました。
第二次大戦後、多くのレジャー文化発達とともに、伊勢神宮の参拝客は激減しますが、20世紀後半におはらい町の人々が町の景観を整え、平成に入りおかげ横丁が生まれ、伊勢神宮はかつての賑わいを取り戻し、いまや参拝客が絶えないのです。
おかげ犬って?
歌川広重の「伊勢参宮・宮川の渡し」に出てくるおかげ犬
江戸時代、伊勢神宮参拝は「おかげ詣り」として大変な人気があり、参拝へ行く旅行集団があったそうです。おかげ犬はその団体に一緒に連れて行ってもらい、主人の代わりにお札をもらって帰ってきていたそうです。やがて、犬が単体で家から伊勢神宮まで行くケースもあり、歌川広重の浮世絵の中にもおかげ犬が描かれており、当時はかなり一般的なことだったと考えられています。
広重の浮世絵に描かれる犬は首にしめ縄をして、主人の名前などを書いた紙と伊勢神宮までの行程に必要と思われるお金をつるしています。道中を危険な目にあうのではと思いきや、様々な人が寝床やえさの用意をしたり途中まで同行したりと、世話を焼いたそうです。犬に代理で参拝してもらいたいくらいだった伊勢神宮は、「一生に一度はお伊勢さん」と言われ、江戸時代の庶民の憧れの観光地でもありました。
残念ながら、こうしたおかげ犬文化は、明治に入ると廃れてしまい、完全になくなってしまいました。
因みに、親に黙って子供がこっそり参拝に行く「抜け詣り」という習慣もあったようで、実はこの抜け詣りは見つかってもお咎めなしだった、と言われています。例えば、仕事を休んで「抜け詣り」に行ったとしても、ウソか誠か、「お伊勢さんに行くなら仕方ないね」と許されていたのだそうです。
お伊勢参り
参拝の順番
そもそも伊勢神宮の祭典は「外宮先祭(げくうせんさい)」といわれ、外宮で祭儀を行ってから内宮で行います。
外宮に祀られる豊受大御神は内宮の天照大御神のお食事を司る御饌都神であるため、まず最初にお食事を奉るという
ことから、祭典もそのように行われるのです。
そしてその祭典に合わせて、参拝も外宮から内宮の順に行います。
どちらか片方だけ詣でる「片まいり」は避けるべきといわれています。
また、お伊勢さんを詣でる前に、天照大御神が伊勢に上陸された最初の地といわれる二見興神社詣でて日の出を見るのがより、正式な方法とも言えます。
外宮
伊勢神宮・外宮(イメージ)
外宮とは通称で、正式名称は「豊受大神宮」は、豊受大御神をお祀りしています。
豊受大御神は天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)という女神であるため、生活に必要な衣食住や産業の守り神とされています。
天照大御神が内宮に鎮座されてから500年余りのこと、(実際には500年以上後のことかもしれませんがこのように記録されています)
第21代雄略天皇はある日夢で天照大御神より
「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」
と、お言葉を賜り丹波の国から豊受大御神を招きました。
そして、この神の為に作られたのが「豊受大神宮」つまり外宮なのです。
外宮御垣内の東北に位置する御饌殿では朝と夕の二度、天照大御神を始め神々に神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭り(ひごとあさゆうおおみけさい)が続けられています。
ご祭神の豊受大神宮のお名前の「トヨ」は豊かさを「ウケ」は食べ物を示しています。
内宮
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伊勢神宮・内宮 /弊社添乗員撮影
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内宮 五十鈴川(弊社添乗員撮影)
『日本書紀』の記述からおよそ2000年前、宮が建てられたといわれ、内宮の入り口にあたる宇治橋を渡ると玉砂利が敷き詰められた長い参道が続く「神域」に入ります。その景色は日本人の心のふるさとにも例えられています。
天照大御神が御誕生されたときに、この上なく輝かしい存在であるとされ、神々の世界である高天原を治める日の神となられました。
天照大御神の御統(みすまる)の玉から子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)がお生まれになり、その子からお生まれになった瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上の世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)を統べることになりますと、天照大御神は
「この国は天地と共に永遠である、この鏡を私のように祀れ」
との祝福をお与えになられ、宝鏡を授けられ、稲穂も授けられたといわれます。
この瓊瓊杵尊に授けられた宝鏡は八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれ、天皇が天照大御神をお祀りするご神体とされています。代々宮中で天皇ご自身がお祀りされていましたが、崇神天皇の御代になるとお側でお祀りすることに恐れを抱かれ、神籬を立てて祀られ、やがて倭姫命によってこの地に宮が建てられました。
この神籬や祠のように一時的にたてられる建物が、「神宮」と呼ばれるような大きく立派なものになるのは、天皇の権威が高まっていく天武天皇から持統天皇の御代にかけてのことであったと考えられています。
今も行われている20年に一度の大祭、神宮式年遷宮もその時代に始まりました。
二見神社
二見興神社 写真提供:二見興神社
猿田彦大神は瓊瓊杵尊を地上へ導かれたことから「物事を良い方向に導く神」とされています。
また、伊勢の五十鈴川に皇女倭姫命が天照大御神をお連れしたときに、
猿田彦大神が天照大御神をお迎え申し上げた場所がこの二見興神社の夫婦岩の場所であったといわれています。
夫婦岩とは明治以降に呼ばれるようになった通称で、昔は大岩は男岩・立岩(たていわ)、小岩は女岩・根尻岩ともいわれ5-7月には岩の間から日の出が見られることもあり、これより先の海は神域と考えられていました。その為、注連縄が締められその前に遥拝所がつくられ拝礼が行われました。
やがて時代が下り、8世紀前半の聖武天皇の頃、この地に訪れた僧行基が、興玉神は仏や菩薩が衆生を救う一つの手段として、わが国の神の姿をとって現れる本地垂跡(ほんじすいじゃく)であるとし観世音菩薩を本尊に迎え江寺を創建しました。また、興玉社を鎮守の神として寺の境内に社殿を設け、寺で祭祀が執り行われることになりました。
明治に入ると神仏分離が行われ、新たに夫婦岩の前に神社が御造営されました。
天照大御神が最初にこの地に訪れた場所ということもあって、今も「お伊勢さん」へ詣でる前に訪れたい神社となっております。
125社
『延喜式神名帳』とは、延長5年(927年)にまとめられた「官社」とされていた全国の神社の一覧表のことです。
末社(24社)は延暦23年(804年)に作られた内宮の行事・儀式など23か条を記した文書『皇太神宮儀式帳』と、
外宮の祭儀等について書かれた『止由気宮儀式帳』に記載されているお社を指します。
それ以外は所管社と言い、42社あり正宮や別宮にゆかりのあるお社を指します。
伊勢観光おすすめのグルメ&お土産はおかげ横丁で!
おかげ横丁とは?
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おはらい町
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赤福氷(弊社添乗員撮影)
しかしながら、第二次大戦後はレジャーの多様化などから、参拝客は激減。町も衰退の一途をたどるかに見えました。
1979年赤福で有名な株式会社赤福・有志の住民・市・県の協力のもと、伝統的な町並みの回復に取り組み、平成5年におはらい町の中程の一角に「おかげ横丁」を開業。おはらい町はかつての賑わいを取り戻したといわれています。
おかげ横丁は、約4000坪の広い敷地内に江戸から明治期にかけての伊勢路の建築物が移築・再現されました。
伊勢の人々が神様と同じお住まいでは恐れ多いと、「平入り」ではなく「妻入り」(妻の部分に玄関を儲ける造り)にした建物が立ち並び、観光客が賑やかに行き交う様子は、かつての姿を取り戻したかのようです。
街中をそぞろ歩けば、歴史的な雰囲気だけではなく、赤福をはじめとする老舗伝統の味、名産品、新鮮なフルーツや味のあるカフェまで、今昔の伊勢の魅力をたっぷり楽しめること間違いなしです。