バルカン半島における約2000年の歴史は、紀元前後にギリシア人、ケルト人、古代ローマ人、そして民族移動でやってきたスラヴ人の居住、中世においてはオスマントルコ帝国、ハプスブルク・オーストリア帝国、海洋貿易国ベネチアの侵攻と支配、そして近年におこった内戦による分断と独立がありました。20世紀半ばに誕生した旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を表現する「7つの隣国、6つの共和国、5(6)つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの言語」という言葉があるように、非常に複雑で簡易には表現ができない地域。これらの影響や複雑さが、西暦2000年の現代においても街並みや文化、人々の習慣として残る国々です。複雑な歴史を経てきたからこその歴史の重さを感じさせられる光景が溢れています。

アルバニア共和国とは

アルバニア共和国 基本情報

【面積】約28,700平方キロメートル(四国の約1.5倍)
【人口】約286万人(2019年)
【首都】ティラナ(約61万人)(2015年)
【民族】アルバニア人
【言語】アルバニア語
【宗教】イスラム57%,ローマカトリック10%,正教7%
【時差】日本よりマイナス8時間(サマータイム時はマイナイス7時間)

城塞都市ベラット

べラットの街並み
千の窓の町ベラット

紀元前5世紀、アレキサンダー大王の武将アンティパトスが都市を建設したことが始まり。紀元前から現在に至るまで人々が住み続けています。聖母マリア修道院だった建物を使ったオノフリ・イコン博物館には、16世紀のイコンや6,9世紀の貴重な写本などが展示されています。ベラットは標高2700mのトモリ山の麓にあり、街の下から見上げる“千の窓の町”と呼ばれるベラット全景は、家が積み木のように重なっているようにも見え、何とも不思議な気分になります。

ブトリント遺跡

ブトリント遺跡
古代ローマ遺跡ブトリント

古代ローマの詩人ヴェルギリウスの叙事詩『アエネイス』にブトリントの名前は登場します。紀元前8世紀頃には人々が住み始め、紀元前4世紀にはギリシアの城塞都市として整いました。古代ローマ人は紀元前167年に支配下に置き、ギリシア侵攻の基地としました。遺跡には半円形劇場、ローマ浴場、共同水場などをご覧いただけます。

アルバニア鎖国時代の名残、トーチカ

鎖国時代に造られたトーチカ
鎖国時代の歴史を物語るトーチカ

共産主義時代のホッジャ政権時、長いことアルバニアは鎖国政策をしいていたことをご存知でしょうか。1970年代、諸外国はもちろん、それまで友好関係を保っていた中国とも断交。その後1990年になるまで鎖国政策が続きました。鎖国時代を象徴するものは、何といっても“トーチカ”です。自国だけで国民を守らなければならない状況下で海外から敵が攻めてきた際に、いつでも対応できるようにと備え、ホッジャが国民に造らせた頑丈な防御壕です。その数は、正確な数字はわかっていませんが30~70万個以上といわれています。結局、海外から敵が来ることはなく、反対勢力に怯えきったホッジャの妄想によって造られた無用の産物となってしまいました。かつてアルバニアのあちこちで見かけたトーチカはアルバニアの鎖国時代を象徴していましたが、近年では管理する人もおらず、人気のないものは朽ちていたり、ゴミ捨て場になっていたり、取り壊されたりと年々減ってきているように感じます。

北マケドニア共和国とは

北マケドニア共和国基本情報

【面積】2万5,713平方キロメートル(九州の約3分の2)
【人口】208万人(2018年)
【首都】スコピエ
【言語】マケドニア語,アルバニア語
【宗教】キリスト教(マケドニア正教)約70%,イスラム教 約30%
【時差】日本よりマイナス8時間(サマータイム時はマイナイス7時間)
※かつての国名は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」でしたが、2019年2月に「北マケドニア共和国」の名称の使用を開始。

震災から復興した首都スコピエ

カメン・モスト(石橋)
新市街と旧市街を結ぶ石橋

マケドニアの首都スコピエは「マザーテレサの故郷」としても非常に有名で、アルバニア人でキリスト教徒の家庭に生まれたテレサは、幼少時代をここで過ごし、修道女になるために旅立っていきました。街の歴史としては紀元前4000年ごろから人々が住み始めるという古い歴史を持ちますが、近年では1963年7月26日に大震災がありました。マグニチュード7.9の地震で、町の建物の85%が倒壊し、かつてオリエント急行の停車駅でもあった旧スコピエ駅の時計は地震がおこった午前5時17分で止まったままとなっています(現在は博物館として残されています)。この町の復興計画の設計を担当したのが、国連のコンペで選ばれた日本の建築家・丹下健三でした。現在のスコピエでは、彼が設計した扇状の街並みと建物が今も残っています。

美しいリゾートの街オフリド

聖ヨハネ・カネヨ教会とオフリド湖
聖ヨハネ・カネヨ教会とオフリド湖

バルカン半島でも最も美しいリゾートの一つオフリド。マケドニアで一番の観光都市。紀元前1世紀にはエグナティア街道の宿場町として栄えました。9世紀からはマケドニアでのキリスト教伝道の拠点として神学校、修道院が整備され、バルカン半島最古の大学も建てられました。10世紀頃から第一次ブルガリア帝国の首都になり、中世には365の教会が建てられ「オフリドのエルサレム」と呼ばれました。1979年、ユネスコの世界遺産に登録されました。

コソボ共和国とは

コソボ共和国 基本情報

【面積】10,908平方キロメートル(岐阜県に相当)
【人口】180.5万人(2018年)
【首都】プリシュティナ(推定人口60万人)
【民族】アルバニア人(92%),セルビア人(5%),トルコ人等諸民族(3%)
【言語】アルバニア語(アルバニア人),セルビア語(セルビア人)等
【宗教】イスラム教(主にアルバニア人),セルビア正教(セルビア人)等
【時差】日本よりマイナス8時間(サマータイム時は実施していません)

自治州から独立国へ

ニューボーンモニュメント/プリシュティナ
ニューボーンモニュメント(塗装はよく塗り替えられます)

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国時代はセルビア共和国の一部として大幅な自治権をもつ自治州でした。しかし、アルバニア系住民が多く占めるコソボ自治州内でセルビア系住民と衝突し、武力闘争へと発展。NATOの介入などにより1999年内戦が終了、2005年にコソボ共和国として独立した新しい欧州の国です(※一部の国は、コソボの独立を認めていません)。

新旧が混在する首都プリシュティナ

首都プリシュティナのカフェ
プリシュティナのカフェ

コソボ共和国の首都プリシュティナは、近代的な建物と15~18世紀の建築物が密集する旧市街が混載する街です。道幅の狭い旧市街を歩いていくとオスマン・トルコ時代建造のモスクや傾いた古い木造民家、繁栄した都市のシンボルとして建てられた時計塔などを目にします。対する街の中心では、歩行者天国となるメインストリート沿いにはお洒落なカフェがありお洒落なファッションに身を包んで楽しそうに語らう若者の姿を目にします。紛争時には戦場となりましたが、その紛争があったことを思わせない平穏な光景がいまはあります。紛争による破壊を免れた古い建物もちらほらとみえ、新旧の建物がモザイクのように建ち並んでいます。

コソボにあるセルビア正教の修道院

ペーチ総主教修道院
ペーチ総主教修道院

かつてセルビア共和国の一部であったコソボの地には、セルビア正教徒にとっての聖地ともいえる修道院や大切な教会があります。14世紀、中世セルビア王国国王により建立された数々の修道院と教会の内部を埋め尽くすフレスコ画はまるで中世壁画の美術館のようです。また“セルビア正教のエルサレム”といわれるペーチ総主教修道院は総主教座が置かれたセルビア正教徒の方々にとって大切な場所でもあります。現在でも、修道女さんたちが敷地内にお住まいになり、祈りを捧げ、修道院を守っています。

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